アメリカ人の法友から次のような質問をいただきました。基本的な問題なので、私の思いをここに書いてみます。
信心についてあなた(新井)と話し合ってみたい。単刀直入に言って、もし阿弥陀仏の光が十方の暗闇に届いてすべての衆生がその光の恩恵を受けるのなら、その光は[救い]とどのように関わっているのか。すべての衆生が受けると言われる智慧と慈悲の光とは何なのか。私はCollected Works of Shinran(英訳親鸞著作集)を注意深く読んだが、この疑問に対する明確な答えは得られなかった。ただ読めたのは、阿弥陀仏は誰も捨てることがない、しかしそのきっかけは疑いのない信仰であり、それはあって初めて阿弥陀仏は信心を授ける。しかしどちらが先に来るのか、光か信心か。それぞれの特長は何か?私は以前は、両者は同じものだと思っていたが、さらに読んでみて、そういうわけではないことが分かってきた。今私はこのことを真実と私たちの存在との関係において考えようと持っている。とにかくこういうことが私が今答えを求めていることだ。私はすべての衆生の救いを信じたいのだが、どうもそうではないと言う人がいる。その人たちは十劫安心の問題を持ち出すが、私に関しては疑いがない。しかし念仏を聞く業縁を持たない人々も、阿弥陀仏は方便によって救うと私は信じている。第一に私は信心正因を信じる。信心が因であるが、その本質はなんだろうか、それがどのように働くのか。もし救いが信じるものに差別なく与えられるのなら、光が必要なのか。私がいつも教えられていたことは、阿弥陀仏はすべての衆生を差別なく救う、ということだ。
つまりこの質問は阿弥陀仏の智慧光と信心との関わりについて聞いているのだと理解します。このメールのあとにも何回かメールをやりとりしたのですが、私の回答のあらましを以下に書いてみます。
(1)阿弥陀仏の智慧と慈悲は本質的に私たちには見えません。それは私たちの感覚を超えたものです。[光」というのは太陽や電灯の光のような電磁波ではありません。電磁波なら空間を通る間に時間もかかるし、遮蔽物にあうと通り抜けられません。しかし阿弥陀の光は妨げる物がありません。端的に言って、阿弥陀の光は阿弥陀仏の智慧の働きそのものであり、時と空間を超越しています。釈尊の教えは、インドから中国、中国から日本へと、1000年以上かかって伝来したようですが、[私]が聞いている法は、今、ここで、私に届いたのです。阿弥陀仏と私の間に距離や時間の間隔がありません。この[今」は私が法を聞き念仏している時です。法はいつも[今]私に届いているのです。智慧光の最大の障碍物は私の自我です。仏の光がとうとうこの宇宙最強の砦を突き破って私の中に届いたことを喜ぼうではありませんか。
(2)私が今、仏の智慧光の中に懐かれていることを知った時、その目覚めが信心となります。法然聖人のお歌に「月影の至らぬ里はなけれども、ながむる人の心にぞ住む」というのがあります。その意味は、阿弥陀の智慧光はすべての人の上に、平等に届いているが、その事実に目覚める人だけが、阿弥陀仏のご恩を知ることができる、ということでしょう。この目覚めの引き金を引くのは、人それぞれの置かれた業縁(仏縁)によって違います。
(3)さきにも言ったように、阿弥陀仏の智慧光は私たちの感覚を超越しています。しかし、その光は様々な形を取って、私たちの目覚めを促します。まず[教え」、すなわち[法」ですね。とくに大無量寿経です。名号[南無阿弥陀仏]は、私たちの届いた光の最も濃縮された形です。だから念仏をする時、私たちは仏の智慧光と一つなのです。
(4)歎異抄の第二章に「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」とありますが、これはこれらの人々上に阿弥陀仏の智慧光が働き、それぞれの人を目覚めに導いたことをあらわしています。あなたがどのようにして親鸞の教えに出遇ったか、直接には誰のおかげで親鸞の教えに出遇ったのか、その時あなたの状態はどのようであったのか、をよく考えてください。それらはすべて阿弥陀仏の慈悲の働きー大慈の光ーから来たのです。
(5)大切なことは、自分の信心が正しいか間違っているか、とか、阿弥陀の光が自分や他人の上にどのようにはたらくのか、とか、教えに出遇わないものや信じないものはどうなるのか、等ごちゃごちゃと考えないことです。ただ念仏をしましょう。念仏をすることが、究極の[おたのみ]、すなわち信心なのです。忘れてならないことは、阿弥陀の光は、阿弥陀仏を信じないものの上にも届いているということです。
(7)浄土真宗における[救い]とは、この阿弥陀仏の光が自分の上に働いていること、全宇宙の中で自分は一人ではなく、常に阿弥陀の慈悲の中に懐かれ護られていることに目覚めることです。

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