最近気になることは、特に「熱心な」真宗信者のなかに、他人を名指しして、その人が信心を持っていないとか、異安心(いあんじんー教えを誤って理解している人)だとか言う人がいることです。そうすることによって、その人たちは自分こそ正しい信心と正しい真宗理解を持っている、ということを言外にほのめかしています。 まことに傲慢な態度だとしか言えません。
確かに「信心」は浄土真宗では中心的なテーマですが、親鸞聖人は他人が信心を持っているかどうかを計る方式など提示してはいません。親鸞聖人のおっしゃったことは、阿弥陀如来の本願を信じて念仏することによって如来の国に生まれられる、ということだけです。大体「信心」といった特別な物体はありません。教えを受けながら世間と接している時に起こってくるその時その時の思いや感情が信心を構成するのです。もちろんそれは信心と関連ある行動となって表れるでしょう。結局のところ、他人が信心を持っているかどうかを詮索する能力は誰にもないのです。
他人を信心がないとか異安心だとか言って批判する人たちは、大体において、その批判する人たちに対する羨望や嫉妬を表している場合が多いです。結局、批判する人たちは、相手の人が自分よりも影響力があって、多くの人に尊敬されていることを証明しているようなものです。他人をそのように批判すると、その批判がそっくりそのまま自分に跳ね返ることを私たちは知らなければなりません。
2009年6月20日土曜日
Shinjin 信心
Some enthusiastic Shin Buddhists are so concerned about attaining Shinjin (true faith) that they often say that such-and-such person does not have true shinjin. They even accuse the person of being an "ianjin," or a person who has the wrong understanding of the teaching. By saying those things, they imply that they have true shinjin and that their understanding is the true one. I must say that they are very arrogant by criticizing others this way.
Granted that attaining shinjin is the central theme in Jodo Shinshu, but Shinran has never laid down a formula on how to judge others whether they have shinjin or not. He has only shown us the path to Amida's Pure Land through nembutsu with total reliance to Amida's Primal Vow. After all "shinjin" is not any solid, immovable state of mind, but a state of heart and mind that evolve under the guidance of the Buddha's teaching in response to the condition of the external world. That state of heart and mind usually manifests in the form of an action. Ultimately it is no one's business to judge others' spiritual state.
Persons who criticize others for not having true shinjin show without much exception their envy and jealousy at those who they criticize, who are usually more influential by their own virtue than the criticizers. In other words, the criticizers are proving that their opponents are worthy of recognition. They must realize that when they blame another person for not having shinjin or the right understanding of the teaching, those criticisms are automatically thrown back at them.
Granted that attaining shinjin is the central theme in Jodo Shinshu, but Shinran has never laid down a formula on how to judge others whether they have shinjin or not. He has only shown us the path to Amida's Pure Land through nembutsu with total reliance to Amida's Primal Vow. After all "shinjin" is not any solid, immovable state of mind, but a state of heart and mind that evolve under the guidance of the Buddha's teaching in response to the condition of the external world. That state of heart and mind usually manifests in the form of an action. Ultimately it is no one's business to judge others' spiritual state.
Persons who criticize others for not having true shinjin show without much exception their envy and jealousy at those who they criticize, who are usually more influential by their own virtue than the criticizers. In other words, the criticizers are proving that their opponents are worthy of recognition. They must realize that when they blame another person for not having shinjin or the right understanding of the teaching, those criticisms are automatically thrown back at them.
2009年6月19日金曜日
自燈明 法燈明
釈尊の最晩年の言葉に「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよろどころとせずにあれ」と言うのがあります。これは南伝の大般涅槃経に見られる文です。
漢訳仏典ではこれを「自燈明・法燈明」と記載されている時があります。日本ではこの表現の方がよく知られています。「島」と「燈明」の違いは、もともとのパーリ語の単語dipaが島でも燈明でも意味できるからです。釈尊の元の言葉は「島」だったと言われています。というのは、私たちの住むこの娑婆世界はしばしば暴流(ぼる)とか難度海などと表現されているからです。島はこういう世界からの避難所です。それは法の働き、如来の救いをたとえたものです。
しかし燈明と理解してもまったくかまいません。私たちの住むこの娑婆世界は煩悩の渦巻く暗黒の世界です。如来に出遇わない、法に導かれていない生活は、暗夜を行くようなものです。その中で先に燈明を見たら、行く方向が定まります。不安が消し飛び、希望が湧いてきます。そうすれば私たちの心にも燈明が点るでしょう。
先月のこのブログに、私が奈良の葛城山へ行こうとして、カーナビをフルに使ったにもかかわらず行けなかった話をしました。それはカーナビが私よりもずっと知識があって、私を行く先まで間違いなく導いてくれる、と思ったからです。確かにカーナビは私よりもずっと大きな情報を集めて、それを私のニーズに応じて提供してくれますが、私があとで気付いたことは、カーナビはどこまで行っても私の狭い知識と判断力の中で働いていた、ということです。
何を言いたいかというと、目的地に達するためには、本当に私たちよりもはるかに優れた知識と智慧を持つ方に会わなければならない、ということです。親鸞聖人は「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし、とよき人の仰せを聞きて信ずるほかに子細なきなり」とおっしゃいました。これはただ自分の思考を停止して「よき人」法然聖人の言うままになる、というようにも聞こえますが、実際には親鸞は法然を通じて、究極の真実である阿弥陀如来の本願に出遇っているのです。その上で自分を阿弥陀如来に会わせてくださった法然聖人に対する絶大な信頼を表明しているわけです。法然の導き(燈明)によって、如来というより大きな燈明に出遇い、親鸞の心にも揺るぎのない燈明が点っているのです。これが「自燈明・法燈明」というのだと理解しています。
漢訳仏典ではこれを「自燈明・法燈明」と記載されている時があります。日本ではこの表現の方がよく知られています。「島」と「燈明」の違いは、もともとのパーリ語の単語dipaが島でも燈明でも意味できるからです。釈尊の元の言葉は「島」だったと言われています。というのは、私たちの住むこの娑婆世界はしばしば暴流(ぼる)とか難度海などと表現されているからです。島はこういう世界からの避難所です。それは法の働き、如来の救いをたとえたものです。
しかし燈明と理解してもまったくかまいません。私たちの住むこの娑婆世界は煩悩の渦巻く暗黒の世界です。如来に出遇わない、法に導かれていない生活は、暗夜を行くようなものです。その中で先に燈明を見たら、行く方向が定まります。不安が消し飛び、希望が湧いてきます。そうすれば私たちの心にも燈明が点るでしょう。
先月のこのブログに、私が奈良の葛城山へ行こうとして、カーナビをフルに使ったにもかかわらず行けなかった話をしました。それはカーナビが私よりもずっと知識があって、私を行く先まで間違いなく導いてくれる、と思ったからです。確かにカーナビは私よりもずっと大きな情報を集めて、それを私のニーズに応じて提供してくれますが、私があとで気付いたことは、カーナビはどこまで行っても私の狭い知識と判断力の中で働いていた、ということです。
何を言いたいかというと、目的地に達するためには、本当に私たちよりもはるかに優れた知識と智慧を持つ方に会わなければならない、ということです。親鸞聖人は「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし、とよき人の仰せを聞きて信ずるほかに子細なきなり」とおっしゃいました。これはただ自分の思考を停止して「よき人」法然聖人の言うままになる、というようにも聞こえますが、実際には親鸞は法然を通じて、究極の真実である阿弥陀如来の本願に出遇っているのです。その上で自分を阿弥陀如来に会わせてくださった法然聖人に対する絶大な信頼を表明しているわけです。法然の導き(燈明)によって、如来というより大きな燈明に出遇い、親鸞の心にも揺るぎのない燈明が点っているのです。これが「自燈明・法燈明」というのだと理解しています。
登録:
投稿 (Atom)
